こんにちは!
巡禮記・うずめカフェの松本育子です。

巡禮記の凡夫先達をしていて
大事にしていることの一つに
“ミラクルを期待させない”
というのがあります。

何か都合のいいことはラッキーとして
また、当たり前のこと、
自分の努力の結果として過ごしているのに

都合の悪いことが起きたら
すぐに見えない霊障や先祖のせいにする人は、

神仏との付き合いにおいても
同じような態度が多いです。

日の守り、夜の守りで
今日も身近な人たちが元気だったり
大難が小難に治まっていたり
暮らせていることについてはスルーなのに

何か不都合が起こると
祈願したのに守ってくれてないとか
叶わなかった、とか
神仏や先祖や見えない存在のせいにする。。。

そういう人ほど
神社仏閣にお参りすることに
何か神徳仏徳を【得よう】とするのに
ミラクルを求めがち、なようです。

だからこそ、得られなかったと
感じることで

「神仏のせい」「先祖のせい」
「霊のせい」にしてしまうのでしょう。

そこに期待が大きくて、落胆も大きくて
とても、短絡的なおつきあいに
なってしまうんですね。

なぜかというと、
自分の人生の選択肢に責任を持つ、

という
主体的な、ど真ん中が不安だから
かもしれません。

天は自ら助くるものを助く、と
言いますが、
何かのせいにしている時点で
自分を放棄して助けてはいない姿勢だと
思います。

 

人間生きてたら、ラッキーも
アンラッキーも普通にやってきます。

どんなに心が綺麗でもこけたりもするし
どんなに行いが清貧でも
どしゃぶり雨に降られることもあるでしょう。

起きることは起きるからこそ、
それをどう解釈して生きるか、が
その人の在り方を決めていくのですが

たしかに、
神仏とか霊とか先祖とかの影響は
少なからずあります。

でもそれは、影響であって、
自分の決定権を明け渡すことではない。

 

例えば極端に言えば霊障すらも、
今後の自分の主体的な生き方を創るための
トリガーになってくれる出来事かも
しれないのです。

 

単純にラッキーとアンラッキーな
出来事がやってくるとして、

この、極を行ったり来たりすることで
体感できるすべてが、

やはりオリジナルな自分の解釈を通して
愛おしいものにもできるし、
人間臭い経験になるし、
人の痛みも分かり合えたりするのだと
感じています。

ラッキーだけの人生なら、ラッキーなんてそもそも感じられないのですから。

 

神仏からの影響
先祖からの影響
見えない大自然からの影響
それらを、昔から人々は

「おかげさま」
「有難い」
「お天道様」

といった言葉で表していました。

うれしいもの、守りになるもの、
日々の当たり前に思うことを存続させてくれる力、

そんなふうに働く影響力として付き合うと
本当にそういう認知になってゆくし

特別に都合のいいようなミラクルを
期待して付き合うというよりも、

その力の影響が不可欠なくらいに
支えられて今の自分の状態がある、と
日々がミラクルの連続だったことに
気付かされます。

嫌なことが起きたとしても、
日の守り夜の守りの中で起きてることだから、

「これはなんの学びかな?」

「これが起きてるってことは、
何がそうさせてるのかな?」

「これをどう解釈してゆけば、楽しく
自分らしく生きられるかな?」

こんなふうに、主体的にまず
思えたら、誰のせいにもしなくていいし
なにより、楽です。

(※起きてくることに対して湧いてくる
感情の取り扱いはまた別、です^ ^
しっかり感じて観ることは大事だから)

そうすると、ますます
神仏や先祖との付き合いが面白くなり、
守護を感じるシーンが増えたり
神縁仏縁がどんどん結ばれてゆきます。

だから、

逆にミラクル!って言いたくなる
ようなことも、増えてくるんですよね。

期待しないで、せいにしないところに
ミラクルみたいな予期せぬ神徳仏徳が
やってくるのは、本当によくあります^ ^

長くなりましたが
巡禮記で凡夫先達をしていて
大事にしていることを
書いてみました。

巡禮記の先達としても
私個人としても、
なんらかのメリット的なミラクルを
簡単に求めてくる人は、残念ながら
早めに落胆してくださって(o^^o)

自分の人生を自分で面白く楽しく
自分らしく、愛おしく、
見えないチカラと一緒に創りたいと
思ってくれる人たちに
来てほしいと思っています。

巡禮記 松本育子