巡礼のおはなし

龍神さまのことをお伝えするときは

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私が、巡禮記の先達のお仕事で

(先達というのは、神社仏閣聖地へのお詣りに皆様をお連れして、そこでまっすぐな祈りをされるようにおつなぎをしたり、環境を整えたり、ご案内をしたり、必要なことがあればいろんな立場の方々にご協力を願ってメッセージなどお伝えしたりする係です)

龍神さまのことをお伝えするときは
まず、龍神さまの存在自体のエネルギーと
如意輪観音さまと、アメノウズメさまに
お伺いとお許しを頂いてからにしています。

それも、地蔵菩薩さまに間に入っていただくように祈願しています。
これがまず、私の凡人としての大前提です。

 

なぜこの神仏なのかは、単純にわたしがいつも日常で身近に 敬愛し信仰しているからで、

勝手に「上の方」と呼ばせてもらっています。つまり、大好きな神様仏様です。

龍神さまのことに関わらず
どんなご神仏に関わるお仕事のときでも
このお伺いとお許しと、お導きの祈願はします。

わたし、という人間は凡人で
本当にただクリアに
伝えるということに喜びを感じる存在なので、
その本質から外れることはしたくないと
思っています。

謙虚とか謙遜ではなくて、単に伝えたいという
わたしの喜びから遠ざかってしまうからです。

本質を生きようとしない人が
人様の祈りのお手伝いなど笑止千万なので
非常にシビアに気をつけています。

(自分の身の程はわきまえていきたいです)

 

龍神さまのことをお伝えするのは、
例えば伏見稲荷大社を先達していたら
御劔社の脇とか、三ノ峰の裏とか、

その神社仏閣ごとに、
お祀りされていたり、目印になってたりして
2〜3箇所のわかりやすいポイントがあるので

その場に参加者さんたちに実際に立ってもらい、感じてもらいながら
ご説明をすることが多いです。

そして、龍神さま、という存在は
まず、人のためにおられるものではない
ということを、ご説明します。

 

最近の龍をつけるとか龍を飛ばすとか
龍を遣う、といった表現は好きではありません。

 

でもきっと、その方々は龍神さまというよりも
龍神さまみたいなカタチに何か意図を込めたり
乗せたりしたエネルギーのかたまりを
つけるとか、飛ばすとか、遣う、というように
表現されているのだろうな、と捉えています。

 

龍神さまというのがどういうものなのか
わたしも感覚でしか捉えていませんが、

この世の流れを司り、方向性のあること
そのものを指す自然なエネルギーだと感じて
います。

人々との暮らしに、接点があるというよりも、

人の生死も、星の運行も、呼吸も血流も
宇宙の営みも、全てがそうなのだとするならば
人は簡単にその中に含まれてしまうものです。

そして、人の意識はそれぞれの宇宙の創造の
中心でもあるので、
含み含まれ、共にある存在というか。。。

 

心臓の音、そのものだったり、
黒潮の流れそのものだったりすると思うんです。

 

龍神を遣うというのは、わたしには
心臓の音を遣う?!と言っているような
不思議な表現に聞こえるのです。

 

生まれてから自然に共にあり、そしてまた
死という方向性を生んでくれるその鼓動に
何を感じるのか?は

信仰をもつ人だからこそ、個々の生き様に
いいように活かしてゆけるのだと思います。

 

心臓の音に、その鼓動に
命のダイナミックさを感じて、感動して
その躍動感に寄り添うように生きる、なら
龍神さまに寄り添う、という感じです。

だから、わたしの中では
こだわるようですが、

龍神さまには
人として寄り添う信仰しかできないと
感じているんです。

ご神木に対しても、同じような感覚があります。

人として、自然のエネルギーに
どう寄り添い、どのように命を生かし合えるか
という感覚は、

畏怖の念も同時に湧き起こり、
ずっとずっと日増しに大きくなっています。
龍神さまと呼ばせてもらっている
その状態を肌身に感じるとき、

すごく鳥肌が立つというか、圧倒的で
いつも、自分すら溶け込んでしまうほどの
エネルギーを感じるからです。

 

 

龍神さまと呼ぶ感覚との出会いは
幼い頃からあったので、きっと
子どもたちはみんなそんなエネルギーに触れて
自然との共存を肌身で知っていくのだと
思います。

どこかで、忘れない限り。。。

 

幼いある日、海辺で死んだ子猫を
生き還らせてくださった大きな龍神さまを
感じたことがありました。
【龍神さまの息吹】
https://ameblo.jp/ikuko-love-joy/entry-12122513741.html?frm=theme

大きくなってこの仕事をするようになってからは
もう少し具体的なことも起きてきました。

半年以上前ですが、巡禮記の先達の折、
時々お詣りする須磨寺の愛染明王さまの横で
ふと、何か気になって足元を見ると
小さな井戸が枯れていたのです。

 

愛染明王さまのところでは
たくさんの人々が祈り、そのお智慧や存在で
救われているありがたい場所です。

仏様と一緒に動いておられる龍神さまの
存在はいかほどに大きいだろうと感じて
なんだか、胸が痛みました。

 

先達に伝えて、どうすればいいか相談し、
その枯れた井戸の石を祈願して、
京都の神泉苑にある神池の水の湧き出る
ポイントに納める、というお仕事を
させていただきました。

もちろん、上の方の許しとお伺いを立てて
聞いてみてからにしました。

 

 

湧き出るポイントが見つかるのか
すごくドキドキしながらも神泉苑の池の淵で
ひたすらに祈願していると
頭の先までスーパーサイヤ人になったみたいな
感覚になってきたところがあり、

 

そこの善女龍王さまにお祈りして事情を
ご説明し石を池に納めると、ボコボコと泡立ち
魚が跳ねまわり、ひゃー!と思っているうちに
静まりました。

 

 

しばらくして、後日、須磨寺にお詣りに行くと
愛染明王さまの横の井戸は水を湛えて
清らかに潤っていました。

 

そんなこともあるんだなぁと
びっくりしながらも
子どもみたいに嬉しくて、心地よくて
愛染明王さまに手を合わせて報告をしました。

 

 

こんな風に、龍神さまはいつも
人の身近におられる自然な存在だけれども、

全く人のために動く存在ではなく
仏様のお手伝いをされていたり
神様のお手伝いをされていたり
自然の動きそのものだったりするので

人が龍神さまに直接、何か欲を願う

というのは
少し違うように感じるんです。

 

日本には八百万の神々さまはじめ
お智慧やお慈悲をくださる仏様が
沢山おられるので、

人はその神仏に祈願をして
縋り成すことができます。

なので、
龍神さまには寄り添う、という信仰が
しっくりくるように私は感じます。

 

昔から雨乞いや天候の祈願はありますが
これも、私の感覚では


龍神さまに寄り添う信仰心を持った上で
その感謝と畏怖の念を表しつつ、
土地や天のご神仏に願う、
共に栄える祈りなのではないかと思うんです。

 

私が巡禮記のツアーなどで
天候の祈願をするときはいつも
そのようなスタンスでしています。

とてもありがたいことに、台風の時も
雨の予報の時も、天候のせいで
ツアーが中止になったり、困ったり
中断したことがありません。

でも、雨も降るし、風も吹く。

その全てが、いいも悪いもなく、
龍神さまという大きな、人智を超えた
動き、流れ、存在を感じられるものになります。

ですから、


ご神仏への祈りをしながら、

自然そのものである龍神さまへ
寄り添う気持ちをもつ信仰の仕方を
先達としてお伝えしたいと思っています。

 

 

だから、龍神さまへの祈りの時は
その寄り添う祈りを日常の水に載せてくださいと
お伝えします。

思い出したとき、やってみてほしいのが

飲む水に龍神さまの恩恵を感じる。

トイレを掃除しながら、”流れること”への
ありがたさに龍神さまを観る。

洗面所から当たり前に蛇口をひねると
出てくる水に、龍神さまの水だ、と想う。

川の流れも海の流動も、おなじ。

 

そんな風に暮らしの中の水に
龍神さまに寄り添う信仰を重ねていくと

自分の中を流れる水分にもその意識が広がり、
なんだか、嬉しくていいものだなぁ
思えてくるんです。

カラダの水分が
淀んでも、濁っても、詰まっても、
また、流れやすくなっていきます。
巡りやすくなっていきます。

結果、神仏に祈ったように生きる流れも
早まったり、叶いやすい体質へと
変わっていくように感じます。

 

大切なのはここで、決して
それが龍神さまのパワーをもらう方法とか
龍神さまがつく方法とか、
そういう奢った特別意識を作る解釈ではなく、

あくまでも、人が自然そのものに
寄り添って生きる結果だと素直に感じていたい。

そう思います。

 

 

ちょっと長くなったけど
私が日頃感じている、龍神さまのことを
お伝えするときのことを
書いてみました。

 

読んでいただき、ありがとうございます^_^

 

松本育子

 

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