【三方よし、の智慧】
日本語は普通に使うだけで
脳のある部分を常に活性化させ、
意識の収縮をふせぐ働きがあるという。
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残る母音の響きはハラから響く音で
肚を使うことにもなるそうだ。
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ひふみ祝詞のような並びの祈りのことばは
確かに特別な音の波形と意図を伝える。
けれども普段の日本語でも
「ありがとう」とか「おかげさまで」とか
なんとなく使ってて嬉しい言葉は
双方の命を生かすだけでなく
母音の音の波形がその磁場をも安定させる。
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言う方も聴く方もその場も、安定する。
子どもが無邪気に「あー!」というだけでも
その場の空気を解放する力を持つように
意識しなくてもそれは生きているけれど
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脈々と先祖より伝わる自然な動きの智慧を
自分が使っているんだという意識が
加わった時、より丁寧に扱うようになる。
それは生きた財として日々の自分自身を
サポートし続けるものだから。
ほうきで掃き清める掃除も同じ。
もし普段が掃除機でも、掃き掃除は
一度は誰もがほぼ体験しているだろう。
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温故知新、というのは
昔が良かったと回帰するんじゃなくて、
まさに今即効使えるものとして
自分の中に召喚できうる智慧が
伝わる中にありますよ、という教えだ。
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ほうきでせっせと掃いて
集めてくる自分の中の雑多なもの
いらないものを認識して掃き集め、捨てる。
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気持ちよくしたのは自分の動きだけれど
他の人もその場そのものも気持ちいいし
「三方よし」を自然と創り出す。
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たとえ子どものときは
やらされてしたことだったとしても
手を動かして綺麗になったスッキリ感覚は
どこかに染み付いているはず。
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一つ一つの自分の動きが、自ずと
三方よしの動の祈りになっていたのだ。
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お寺の掃き清める修行でも同じで
やってみたこと、身で得た動の智慧ほど
応用が利き、我が身を助ける財はないのだろう。
そう考えると
“手を合わせて祈る”という動きの智慧もまた
三方よし、の智慧だ。
目には見えない”何か”への深い理解を
ごく自然な所作で身に染み込ませてきたもの。
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自分という概念すら固まりにくくさせるし
信仰という、本来の意識の自由を知るための
智慧でもあると思う。
手を合わせてご神仏に祈る時に
嘘なく、本当に自分の幸せを願い祈れたら、
自ずと ご先祖さまにも 自分の子孫にも
幸せな波紋は届き、調和を創り出すから。
そして、そうなったときの自分の幸せは、
実は周りの幸せにもなっていることが
実感できるから。
自分は身体だけでもなく
心だけでもなく魂だけでもなく
この星で「体験したい」チームだ。
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だから過去の愛されなかった記憶や
嫌な出来事だって、悪癖だって、
こんな家系に、こんな両親に、こんな環境に
そんな風にしか思えない事だって
それもすべて今の自分の気づきや
したかった体験のあり方にとっては
大切な「設定、背景という財」。
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そう思えないことも、恨む、悲しむ
嘆くという感情すらも含めた、起伏を味わう
体験という財になり、祈りの原動力、つまり
“新たな今”である未来を
産みだす原動力となり続ける。
今の体験をチームの自分が
設定してやりたくてやってるんだ
と自覚するだけで、そしてそれは
新たに選択してゆけるのだと気づいて
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手を合わせて祈る動きも
掃除も、言葉遣いも、なんでも、
一つ一ついいと思った行動を
動きの智慧として実際にやってみることで
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今だけでなく過去、未来の
三方よしを創り出す。
三方よしの智慧は、暮らしの中に。
きっと、お智慧満載の中に生きている自分を
自覚してゆくごとに、生きやすくなる。
面白くなる。
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今日もクリエイティブな1日を。
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記:松本育子
暮らしの動きの智慧がたくさんみつかる☆
●巡禮記 ツアー 遠足
http://susagen.ciao.jp/junreiki.com/01/10/130