巡礼のおはなし

–生き方と須佐厳の師について–② 神戸の華僑老師

投稿日:2017年9月12日 更新日:


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「商い(あきない)」とは何かを教えて下さった陳老師のおはなし。
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「今の日本人が流通革命じゃあ!言うて、エラそうにやっとる商売モドキは
全部ウソクソじゃあ!
流通も小売りも、それから金融はヤクザよりタチが悪いで。国民全員がカネ
の使い方を間違うとる」
(バブル景気に沸く1990年当時)
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その通りでした、それからしばらくしてバブルの崩壊が起こりました。
その当時、浮かれすぎて有頂天になっていた日本人にはとてもじゃないけど
理解できない言葉だったのです。

これはその後の1998年のこと、
「田中はん(すさげんのこと)、ちょっと離れて、よう見とったらよろし。
ひとりコケたら、みんなコケまっせ!」
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日産自動車などの巨大企業と下請けや孫請けの企業との結びつきを言って
おられたのでしょうね。
何人死ぬんだろう、目も当てられない惨状でした。
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でもね、よ~く考えると親会社が悪いんじゃあないんです。
ボクがよく批判を受ける考え方ですが、曲げようとは思いません。
つまり、馴れ合いの中で親を信じ続けた者の失態と結末だったんですね。

さらに、この感覚は日本人には理解できないことなのですが、
「けったいやなあ~。コケても間違いに気づけへん。また同んなじコトやりよる。おもろいなあ~」

親会社が倒産してどえらい目に遭っても、また次の親会社を探そうとしている
企業の先見性の無さを言っておられたのですね。
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ほとんどの経営者に対して勉強不足で自立心が無いことや、
リストラされたオヤジがハローワークに群がっている様子も笑っておられましたよ。
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自分たちの能力を自力で評価することもできないで、だらだらと生きている、
そして、すぐ他人のせいにする、世界最高?の教育を受けたはずの人々。
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次の仕官先を探しながら、だらだらしている浪人を作り出した
日本古来の経済システムも嘆いておられましたね。

「日本人の若い、にいちゃんやねえちゃん、英語もしゃべられへんくせしとって
アメリカ人のカッコしてアメリカの音楽聴いとる。アホちゃうか?」

我々の世代も耳が痛いです。国際人として恥じぬよう生きよ!と、
背中をシバかれた気がしました。
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語録には限りがありません
須佐厳が辛口になったのも陳老師の影響が多分にありますが。
これだけは真実です。
陳老師の言葉にはウソがたった一言もありませんでした。
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老師はその人生を凄まじい気迫で満たせ、波瀾万丈のなかで老後の
安寧を「生き方」の結果として築きあげてこられたのです。
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つまりあたりまえの事をあたりまえにやって来ただけのことと回想します。

あたりまえにやる・・・・・それがどれくらい難しいことか・・・・・・・
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陳老師が神戸に居を構えたのは第二次世界大戦前です
戦前・中・後を通して大変に屈辱に満ちた生活を強いられました。
その弾圧的な暮らしの中から必然的に本物を見つめる目を養ってこられたのです。
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戦後に中華料理のレストランを始めました。
その時の状況は次のような語録としてボクの頭の中に衝撃的にたたき込まれています
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「田中はん ホンマもんの産地直送や直輸入いうてわかる?
産地直送の素材を使っています!直輸入!ゆうて看板上げとる店はみんな大ウソやで」
「間に問屋が入っとるからあかんねん。そこで品物も値段もワヤにされるねん」。

「つまり、作った人の心がそこで封じられとるからや。買い手の心も作る人に伝われへん。
どうしようもないほど、世界最高の大ウソやねん」
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2008年 に明るみに出た「産地偽装」問題を、戦後には考えておられていたのです。
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老師は日本人から「シナ人!」と罵声を浴びされ、石をぶつけられ、
咬んだ唇から血を流すような恥辱を感じながら青年期を過ごすことを強いられました。
レストランに出す新鮮な食材も当然都会の問屋は卸してくれません。
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いいですか。
ニワトリやブタを日本人が買いに行かない奥地の農村まで買い付けに行って、
一緒に貨車に乗って帰って来たんです。
何十キロの道のりを野菜と共に荷車を押して帰ってきたんです。
産地では農家の人と共に労働し、中国料理を振る舞い、着実に自身の存在を
残してこられました。
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これは、お人柄によるところだと思うのですが、
元々農村の出ですから、なし得た事だと思います。
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それから店の庭で畑を耕し、ニワトリやブタも肥育し料理として提供してこられました。
「田中はん、このやりかた以外は産地直送ちゃいまっせ!直輸入でもあらへん。
あんたは商売っ気があるから、(その当時ボクは不動産業者だった)自分で商売始めるやろ。
その時にはこの事を思い出してな。
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品物ンを絶対、問屋に渡したらアカン! 問屋から買うてもアカン! 商社と言うところは
売れそうな商品に群がるダニみたいなモンやと思うほうがええ!
品質でお客さんを騙したらあかん!後が続かへんで。」
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ここまで言うか!と思いましたが、今、納得しています。
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それから程なくして、ボクはかねてより引き抜き要請のあった「商社」に身を置くことになり
中間管理職として「間違った流通」のことや
「なぜ老師をしてダニと言わせしめたのか?」を勉強してきました。
そして数年間勉強させていただき、「ほなさいなら」と上司を殴って辞めました。
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その後、たった数日でジュエリーブランドのHOWCLUBを創業し独立してからは、
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陳老師の言葉通り進んできました。
俺が純然たる作り手になったわけですから。
俺が作った商品は他人様の手を介さず、直接お客様にお届けしています。
品質を偽ることができない商品、無添加純銀(SV1000)の開発にも成功しました。
老師のおっしゃられたとおり、これほどマジメで気持ちの良い、
背筋の伸びた商いはこの世にありません。
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一応、あたりまえの事をあたりまえに出来る環境を作ることができました。
誉めて下さいますか?
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誉めて欲しくても、老師の言葉はもう聞けません。
ご無沙汰することが多くなり、連絡も疎になりつつ、
俺に知らせることなくひっそりと他界されたそうです。95才の大往生でした。
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残されたものは、
神戸元町の ものすげえ土地やビル、レストラン3件、食材の貿易会社2社
全て親族経営です。
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最後にもう一言、老師の言葉遣いそのままで紹介します。
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「田中ハン、ニポンジンエラソイウケト、ナンキンマチ、ニポンジン、土地一筆モ無イナ!」
(田中ハン、日本人はなんでも偉そうに言うけど、神戸の南京街や元町に日本人所有の土地は一筆も無いじゃないか!)
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陳老師は俺の生涯、心に生き続けます。
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–生き方と師について–③バンコクの華僑の父 に続く
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