ブログ 巡礼のおはなし

高野山という山のこと

投稿日:2019年8月20日 更新日:

高野山って山はとっても有名だけど
ぼくたち凡夫(フツーの人)にとって、
そこに行くのってどんな意味があるのか?
で、な~にをしに登るのか?

で、ちょっと切り分けておいてほしいんだけど
ぼくたちは「凡夫」です。
この山は、空海様を慕って、僧侶たちが修行をするところでもありますが、
その僧侶たちと凡夫とは、この山の意味がぜんぜん違うんだってことを覚えておいてください。
同じにする案内人も多いけど、お互い失礼に当たりますからね。

空海様がその仕組みも整備なさって、ここにお坐りになってますから、
凡夫のような僧は律し、僧のまねごとをする凡夫にも「やめときなよ~まねごとは~」とおっしゃいます。

密教を体現するために俗を離れて、仏法修行を生涯追及する者たち  
これが僧侶。

幸せに生きてゆくという過酷極まりない修行を俗の中で追及するもの 
これが私たち凡夫です。


現世利益の先達をしている 巡禮記の先達ですが、
高野山へは
私たち凡夫の、現世利益を取り扱っておられる
すべての霊位様の供養に伺います。

私たち凡夫の巡礼に必要な「立ち寄り点」であり、
「出発点」であり、
そして、「終着地」でもあるのがこの山です。

 

私たち凡夫が、高野山でできる供養は、
諸霊分け隔てなく、敵も味方も、
そして、自分自身もです。

ですからまず、
目に見えない諸霊と、どこか切り離していた
供養する側の「自分」との距離を無くしてゆきます。

といいますか、限りなく近づけてゆくことができる場所だと
考えてください。

実は、わたしたちが供養!供養って、日々想いを傾けている
ご先祖やご縁故の諸霊から、
逆に供養される自分もいるんだってことを
ひとつのわっかにする場所です。

よく考えると、大昔からこの場所が私たちに遺されて
今も自由に入れること自体が、
諸霊から私たちへの供養であるわけです。

それが、感極まるように、体現できて行く先達をさせていただこうと思っています。

ここ ちゃんと つながないと、
また、見かけ上、心地いい、誘いの強烈なバーチャル精神世界の誘いに傾き始めます。

なぜかというと
供養!供養!で疲れて、
目を見張るくらいに叶ってるってことは、少ないですからね実際。

供養というのは、独奏ではなくて
合奏とか合唱に近い響きあいをもつのよね。

そのハーモニーができて、ボリュームが増してくると、
気がつかないんだけど、
身のまわりが、ものすごく大きく変わってることがあるんです。

目の前に一万円札の束が現れないから
すぐにわからない人が多いけど、
そんなことも、そのハーモニーの一部なんだってことが
理解できたら、知らぬ間に懐に入ってるものです。

つまり一万円札の束を、普通に取り扱う
自分がそこにいるようになっただけのことです。

それを、一発千金ではなくて、延々と続けてゆくのが、私たち凡夫の修行です。

その合奏、合唱の指揮者は
空海様です。

自分の中にあるんだけど、気がつかない大切なものを「蜜」という。
密教の蜜ってこんな意味がありますが、

この はーもにーが、密教の極意かもしれませんよ。
ほとんどの人が体現できてないことですが、、
いや!
気づくことすらできてない人が多いですね~
例えば、お参りテキトーで、朱印だけもらって帰る人なんかがそうよね。

巡禮記では、専門性のあるご経験をたくさん蓄えておられる
力のあるご神仏様のところを訪れて、ご縁をつなぐということもしてきましたが、

高野山では、最も「蜜」に近い、簡単なことではない、それを期してゆきたいと思っています。
わっかです、合奏、合唱です。(山で歌うことはありませんので安心してください)

それを
やったろうやないかーーーって
登るのが、高野山です。

 


 

ちなみに、うちの本尊の弁才天は
高野山の灯篭堂で、空海様のご媒酌で開眼いただきました。
ぼくのわっかの中の大切な仏さまです。
見かけはバリ風ですけど、ちゃんとした妙音弁才天尊です。

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