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出雲に先祖をつなぐ意味

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しっかりやってるか?
なんか引きずってないか?
大事なものを邪険にしてないか?
大切なものや人を失うようなことをしてないか?

ちょっと前の栄光にこだわってないか?
ニセモノの光に包まれてないか?
何に駆り立てられてるの?
脅しに屈してないか?
自分の足で立っているか?

いい顔をしてるか?
失うものと得るものとの振り分けができてるか?
失う覚悟ができてるか?
得る資格を育てて行ってるか?
試練の中で試(こころ)みを繰り返す準備はできているか?

私たちの声が聴けるようにしてるか?
私たちを聴く耳を持っているか?

目に見えないんだけど、私たちの周りのご先祖さんや縁故の人の魂って、
常にそんな心配を僕たちに注ぎながら、
ピタッと寄り添ってる。

イヤでもそうなってて、
誰かの思惑にハマって直接のアクセスを邪魔されてる場合は、
遠巻きに寄り添ってて、自分たちの存在に気付いてくれる時を待ってる。

ありがたいね、早くそれに気づかなきゃね。

だから、巡禮記は、
稲佐の浜で、砂は持って帰らないし、
カミアリヅキに挑発されて、出雲を訪れない。

私たちが、俗世間の挑発に鼓舞させられて、ここを訪れたのではないことを確認して、
出雲の神々は、私たちが連れて行った先祖の霊や、縁故の霊を迎え、

私たちが発した、難関を超えてゆく智慧を
その霊たちに諭してゆく。

そうすると、ほどなく
人をして、物をして、環境をして、
私たちが発した艱難辛苦について回答が訪れる。

張り付いていた見かけ上華美なものが、べりべりってはがれるのもそんな時だし、
信じていた人の裏切りを目にするのもそんな時だ。
そんなときは、もの凄く辛い。
全てのものを失ってしまったような、喪失感に襲われる。

問答無用で、情けがない。
吐くように乱暴な言葉を発したり、唇をかみしめることもある。

これが祓いだ。

でも気が付くと
なんとなく引っかかっていたけど、行動に踏み切れずにいたことが
道をつけていることに気が付くこともある。

喪失感を味わった後だから
立ち直りはすこぶる早い。

これが清めである。

それをたどってみると、
昔から小言ばかり繰り返す親であったり、
なにかとまじめなことばかり言って、聞く耳を持てなかったりした同業者であったり、
先にどんどんと進んで、見えなくなっていた友が近づいてきたりして、
その道が、存外に歩きやすいことに気が付く。

相変わらず、自分を愛してくれていた者は傍にいて、
条件で愛し合っているような行為をしていたものは、静かに消えてゆく。

これが納めである。

人は、独りで生きてはゆけない、という言葉があるが、
人は、独りではない という言葉に置き換えたほうがいいのではないかと思うくらい。
気が付くと、たくさんの応援者に取り囲まれていることに気が付く。

言葉や思想や都合に
左右されている場合ではない。
人の独立は
たくさんの魂に支えられて、それが始まってゆくものだから。

出雲って聖地は、
集団思想によって訪れるところではなくて、
ジブンをどう立て直すかを求めに行くところだ。

人が大昔に作った観光キャッチフレーズに誘われて訪れても、
何にも起こらないようにそれは仕組まれていて、
カミと人と魂のリレーションを理解してみようかと思う者に対してのみ、
その、祓い、清め、納め、があるように、
聖地自体が、人に、これからどんな勉強をしてもらいましょうかね~と
振り分けることができるように配置されている。

神々は人を振り分けることはないが、魂を振り分ける。

これだけの聖地の集まりで、ほとんどが要件に合致しながら、
宗教的に自宗思想(※カミアリヅキ思想)に傾いていることで、世界遺産になれない事実と、
訪問者が多いのに、ずいぶん昔から過疎地域であることに、神々の思惑があるように思える。

だから、先達は、そう念じて集まった人と、
寄り添っておられる魂を、要らぬ思想を剥がして、まっさらの状態にして
神々に対面していただけるように心がける。

出雲、もれなく巡ってまいりました。
ご参加くださった皆様。
これからが、おもしろうございます。

巡禮記 先達一同

 


神無月に全国の神様が出雲に行き、
各地の神社から神様がいなくなってしまうという思想は、
全ての神様も、出雲の神々さまも許していません。
各地の鎮守の神が、自分の宮を留守にするなんてことはありません。
つまり、
その思想によって、その「カミアリヅキ」という言葉を聴いたが、
どのように動くかを見る材料に使っておられます。

 

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