【根本中堂の中庭で】
数年前のこと。
比叡山のお詣りの時に
根本中堂の中庭を眺めてたら
不思議な丸いものがふわーっと見えて
こんなメッセージをいただいた。
その時わたしは
奈落の底のような気持ちにいて、
落ちる理由すらも貪るような自分が
仏教界でいう餓鬼や夜叉のようで
すっぽりと迷いの中にいた。
そして手を合わせても、言葉が出てこない
という状態をそっとそのままにしていた。
優しそうな中庭の主は、私が数日後に
この暗闇を抜けることを知っていて時間差で
わたしにこれを感知させてくれたのだろう。
ずいぶん前の出来事だけれども
いつまでも、大切にしていたい出来事だ。
宗派やあらゆる人の垣根を超えたところで
ただ一人の人間としてご神仏に手を合わせる、
そんなシンプルさの繰り返しである
巡禮記のお詣りだからこそ
時々こういうメッセージに出会うのだと思う。
個人的なものですが、
伝わる人に伝わるなら、と思いシェアします。
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「ひとにはひとの明かりがあり
明るさも色も大きさも異なるが
照らしてあげねばならぬ人もなく
照らしてもらわねばならぬ人もない。
理由なしに、こう生きると、
自分で決めるちからを 勇気というならば
その明かりは勇気そのものいう。
多様な生き様が混じり合う
混在の場でこそ「理由」は磨粉となり
迷いにもなる。
ここに来て手をあわせるならば
何者でもない理由なき己に逢いなさい。
意味付けも賞賛も否定もない、
ぽっかりと空いた中庭のような己から
理由なしに、こう生きると
自分で決めるちからが
湧き出るまで。
その明かりで、一寸先の歩みを
ふみだせるまで。
どこまで理由を白紙にしても
どれだけわからなくなっても
神仏や先人の護りという後光のもとで
そこに立っているのだよ」
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わたしの選ぶ今、の点を灯すのは
わたしを生きると決める勇気だけじゃなく
たくさんの護りの明かりもある。
点と点がどんな軌跡を結ぶかはわからない。
だからこそ、いつも、中庭のような己から
小さな明かりを信じて踏み出し続ける。
多様な生き様が混じり合う
混在の場でこその 喜びを 見出し続けるよ。
記: 松本育子
●巡禮記 遠足 ツアースケジュール
http://susagen.ciao.jp/junreiki.com/01/10/130