ツアー・遠足 巡礼のおはなし

【お詣りの後に何が何だかわからなくなっちゃった時は】

投稿日:2018年6月4日 更新日:

 

全身でお参りして祈った後に
燃え尽きちゃう感じというか。。、

 

頭では何も考えられない
何も感じたくない
ぼーとして
何が何だがわからなくなって
鬱かなーと思ったり
わたし何を望んでるんだっけ?って
放心状態になる時、ありませんか?

 

祓い清めの強い神社などで
自分の内観したことなどを深く祈りにして
全身運動で(わたしは祈りは全身運動だと
思っています^ ^)手を合わせた祈りの後は

そうなることがあります。

 

いわゆる、
「自分酔い」です(^-^)
悪いことではありません。当然というか
自然な生理現象だと思います。

 

自分の内面の祈りは、

自分という車に自分が乗っていて
道を作ったのも、この景色も、登場してくる
すべてが自分で、ハンドルはわたしが握って。。

というところにフォーカスしてゆくから

処理が追いつかなくなって

自分酔いを起こすことがあります。

 

車酔いの後みたいにフラフラしてぼんやりして
何も考えたくなくなります。
感じるのも億劫になります。

自分という、
あまりにも輪郭のぼんやりしたものを
なんとかいろんな方向から
捉えようと、知ろうとがんばってみて
さらにそれでどうにか進もうとするのです。

 

それを祓い清めの強い神社で祈ると、
もう、まるごと洗濯機で洗われちゃうかのように
何が何だかわからなくなってきます。

でも、それでいいんです。

そこまでして、自分に執着してゆく
その姿勢もとても人間らしくて素敵だし
そうまでして、きっと感じたいことがある。
やりたい体験があるのだから。

 

でね、そんな時の対処法のひとつに
【自分以外のストーリーを、ただ感じる】
というものがあります。

禅にも似た感覚だと思います。

青虫がむしゃむしゃと葉っぱを食べているのを
ぼーーっと見つめる、とか(笑)

 

虫には虫の世界があって、青虫が主人公の世界では葉っぱを食べることが「いま」のすべて。

 

それを何も考えずに、ぼーーーーっとみる。
ただ、みる。きく。そこにいる。だけ。

他にも、映画を見たり、小説を読んだりも
いいかもしれません。自分ではない誰かのストーリーに入れるので。

 

他にも散歩して、自分が歩いているのではなくて
景色の方から勝手にやってくる、景色のほうを
主人公にしてしまう。そうして、ただあるく。
皮膚でかんじる。振動をかんじる。
かぐ。きく。みる。
(安全な散歩コースにしてね)

 

などなど。

【自分以外のストーリーを、ただ感じる】

これを、自分酔いがなくなるまで
やってみてください(^-^)

 

食べたい時に食べて
飲みたい時に飲んで
眠りたい時に眠り、
それもあまり考えずに、
こういう身体さんが主人公〜って感じで。

 

自分の肩書き、しごと、毎日のノルマ、生活
それすらも付随する「知らんけどこんなひと」として
客観的なストーリーとしてみてみます。

とっても、無責任で(^-^)

だんだんと、五感の感覚が腑に落ち着いて行き
からだ、そのものに意識がずしんと重なり
セットの感覚の中心が肚におさまってきます。

一つの対処法として、おススメですので
お参りの後に何が何だかわからなくなっちゃった
そんなときは、やってみてくださいね!

 

記:  松本育子

 

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