【《忘れる》という 供養】
巡禮記 遠足では 神社仏閣へお願いごとをしにゆくお詣りと同時に
【供養】ということがどういうことなのか、それをしたら
どんな風に生きやすくなるのか、という話が
出てきます。
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今という起点から、未来に伸びる願いと
過去に伸びる回向の気持ち【供養】を
同時に満たすのがその人の「祈り」です。
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なぜなら、願いは日々の暮らしの集大成から
溢れてくるもので、それを一緒に支えて
応援してくれるのはご先祖さまはじめ、
もっと厳密に言えば自分自身の過去の全て
だからです。
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願いと回向(供養)を同時に合わせて祈るとき、
とても正直で、まっすぐな祈りになります。
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過去を回向(供養)して仲直りして
ありがとうが湧き出したら、
その積み重ねの全ての最先端にいる自分を
なんの理由もつけずに許せたら、
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これからの生きる選択肢が変わって行く。
道が、拓けて行く。
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だから、自分のための、供養です。
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ゆっくり時をほどいて、ご縁の先までを
見えない応援団にしてゆきましょう。
回向(供養)の過程でとても大切なのが
【散り際を忘れるというご供養の祈り】
です。巡禮記の遠足でお詣りしている中で
この散り際を忘れる祈りは、必要な方には
先達からも個人的にも必ずお伝えしている
お話です。
【忘れないことがご供養だ】と
よく、先達が言われていますが、
この【散り際を忘れる祈り】は
矛盾していなくて、むしろやってみると
その本当の意味を感じることができます。
散り際を忘れることが、その方の魂の光を
忘れないことになるんです。
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散り際とは、亡くなられた方の死に様です。
特に、悲しみや後悔を伴う亡くなり方の
個人的な記憶、未浄化な念、です。
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痛みや病気の苦しみで亡くなられた方々の
死に際や死因や懺悔・後悔を、子孫の
生きた私たちがずっと覚えていたら、
ご成仏を助けることになるでしょうか。。。
【散り際を忘れる祈り】をするとき、
その方の死に様への罪悪感や
蓋をされてきたことへの影響の怖さ、
代々語り継がれた不安などが
伴っていることもあります。
自分がそこに重ねていたことで
握りしめている想い、悲しみ、罪悪感
などを観音様やご神仏に委ねてみましょう。
ご先祖さまもご自身もお互いに楽になり、
自分の願いのままに前に進めるための
大切な祈りの場となってゆくでしょう。
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苦しい引っかかりを、あったかい応援として
または、大切な学びや智慧として、
背中に受け取っていけるようになります。
この祈りを、意識されてご供養を重ねて
ゆくと、まず生きるのが楽になられたり、
不要な罪悪感がなくなったりして
とてもスッキリされてくる方が多いです。
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さらに深く護られてるように感じて、
感謝が自然にお腹から湧いたりされる方も
実際に多いです。ご先祖さまへの感謝は
無理やりするものでもなくて、こんな風に
回向(ご供養)によって、
積み重ねの最先端にいる自分自身を
許したり、しっかり受け止めたりする
ところから溢れてくるのかもしれません。
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もちろん何も感じなくても、
それが祈りの目的ではありませんから
いいのです。
「供養」は回り回って自分のため。
ご先祖さまの供養は同時に自分自身の
たくさんの記憶たちの供養でもあり、
今生きる縁故を温めて、願いを生み出し、
喜びを何倍にもしてゆけるものだと思います。
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両手の手のひらを合わせるとき、
願いを口にするときにはそっと、
見えない応援団が暖かく傍にいてくれる。
それはとても嬉しいことだと思います。
●巡禮記 供養会 のお誘い
「どうやってご供養するかわからない」
「うちのこんな場合はどうしたら?」
にとても丁寧にお答えします。
国籍や宗派問わず「信仰」を大切に伝える
巡禮記だからこそ、できる供養会です。
とても古くからある、寺院の僧侶の方に
導師をしていただき水塔婆をあげます。
遠隔によるご供養会参加、現地先達つきの
供養会参加、どちらも可能です。
この機会に、巡禮記の伝えるご供養の
安心感とご自身の確かな感覚を体験して
くださいね。
記: 松本育子