【供養】
「供養は自分の幸せを
みていただいて、共に喜ぶ事だよ」
先日聴いた、先達の言葉です。
供養っていうと
なんとなく
供養しないとご先祖様が
祟るかもしれないとか、
バチがあたるんじゃないかとか
しなきゃいけないものだとか、
そういう不安や怖さ、
世間一般の不明確な習慣のままに
従っていることも多いと思います。
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けれども
ひとの霊性というのは
こうあるべき、と決めつけたり
怖さで枠固められてしまったり
特別視したりするものでもなく
ごく自然に誰もに備わってる
自分そのものの拡がりとして、
もっとシンプルにそして
丁寧に、大事に扱われても
いいのではないかと思います。
「自分の幸せをみていただいて共に喜ぶこと。」
って、
誰もが負担なく恐れなく
うれしい生命の方向を向いています。
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ですから、供養は
血のつながりに どういう力を見出して、
生きる応援として 活かしていけるか
ということだと、私は感じています。
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具体的にどう活かすのか
わからなくても、
ご先祖さまと一緒にお詣りする気持ちで
ご神仏に祈りに行くと、
祈り願ったことを一緒に聴いて
叶えようとして、共に喜ぼうと
ちからを貸してくださるそうです。
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その応援は、
ときには、
ふ、と目につく 小さな石ころになったり
吹いてくる風になったり…
偶然を引き起こすあらゆる現象になって、
背中を押してくださるような気がしています。
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本人が会うべき人のところへ
導いてくれたりします。
そうした中で体験を重ね、
生まれてきて嬉しい!
嬉しくてありがとう!が
勝手に底から湧いてくることが起きると、
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自分そのものの拡がりの先っぽの方にまで
その嬉しい!の波紋が起こり、
あたたかい光が巡り届いていく。
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それが「供養」として
先祖代々、子孫代々にまで
魂全体を照らしてゆくのだとしたら、
ステキなことだと思うのです。
誰もが「応援」を持っているんですね。
その人、単体だけではなく
その人の後ろの応援も含めた全部を
その人として観るようになると、
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どんな人も今を起点にした可能性の塊として
生きておられるのだなぁと感じます。
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一生懸命やってみて
あとは、
ご神仏や見えないよき流れにお任せできる、
その信頼こそが、
何よりの供養であり、祈りがつなぐ応援の力
なのかもしれません。
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記: 松本育子
●巡禮記のおもしろさ。
神様や仏様のことを、もっと身近に
自分のすぐそばにあることとして
体感にいらっしゃいませんか?
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神様仏様にお詣り、というと何か苦しい
状況の人が助けを求め続けるようなイメージ
だったり、堅苦しい決まりだったり、
特別視したい心理をくすぐるものだったり、
そんな風な概念も多いかと思いますが、
人の信仰には神仏習合の頃からの
分け隔てない「楽しさ」「夢」といった
今の自分の可能性に触れていくための要素が
たくさん詰まっています。
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巡禮記の遠足、ツアーで
神様仏様のことや祈ることの自由さを
知ってゆくと、自分の五体手足を使って
お詣りすることがどんどん楽しくなります。
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祈ることにどんどん無邪気になれます。
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身近な存在として、ご神仏に手を合わせて
祈ったように生きていくことを
面白く、楽しく、真剣に選んで行くことが、
難しくなくなっていきます。
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なんの知識もいりません。
宗派や国籍、老若男女問わず同じです。
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ご神仏とのお付き合いの仕方については
人の数だけ例もありとても幅広いので
一人一人全員に
違う祈り、違う暮らしがあることを
何よりも大事にしてゆくのが
巡禮記のスタンスです。
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一人一人にできる、ご神仏とのお付き合いの
提案やアドバイスなどを
先達の豊富な経験から伝えてくれます。
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祈りを揃えない面白さは遠足やツアーで
ぜひ体感しにきてください。
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巡禮記