ブログ 巡礼のおはなし

人を裁く

投稿日:2018年2月19日 更新日:

 

人が人を裁くということは
愚かなことかも知れませんが
これが無いと社会の秩序が保てないようです。

たとえば リストラをする人。
報奨を上げたり下げたりする人。
人を採用したりしなかったりする人。
交通違反を取り締まる人。
罪による量刑をしなくてはならない人。

法によって定められた裁きは別物として、人の生き方の「裁き人」
この人たちは 他の人を裁く権利があるのかといいますと・・・
ひとつだけ条件があります。

それは 心を病んでいないことかもしれませんね。

心を病んでいますと、
裁くことによって裁かれる者の痛みを受けてしまいます。
恨みも受けるでしょうし、
自身が 他の勢力から裁きを受けることに
恐れながら生きることも強いられます。これは全く無駄な労力です

逆に 心が清浄ならば 必要な裁きができます。
つまり 裁きとは、その人の身体を拭い、
不必要なものを取り去る作業でもあるからです。

それを社会に置き換える目を持って、
秩序という並び替えができるからです。
そうすると、裁かれた者を納得させることができます。
別に用意された勉強や仕事に就くこともできるでしょう。

つまり 裁き自体が 新たな使命を与えることになったり、
元通りの使命に戻してあげたりという事になるわけです。

それにはタイムラグはあるかもしれませんが、
つまり気づきを知らしめる原動力にもなってゆきますね。

 


 

これは余談ですが
たとえば リビアのカダフィー大佐や、イラクのフセイン大統領は、
一兵卒の銃弾という個人的な裁きを受けてはいけなかった。

民意を受けて殺害されたのかもしれませんが、
この世から逃がしてしまえば 元も子もないです。

彼らは厳格なイスラム法の裁きを受けた後、
その諸悪の根源である蓄財を野に放つ仕事をしなければならなかったのに、

残念ながらその蓄財は過去の例よろしく、
闇のルートを辿り、心無き人物や団体が浪費することになりました。

人を裁くことは いずれにしても難しいことですが、
何者にも扇動されない病んでいない力強さが欲しいですね。

自分の罪を恐れず、祈りの中で見つけてゆきましょうか。

え?罪を恐れないと「神の裁き」を受けるって?

いえいえ、月が人を裁かないように、
神仏だけは、人を人のように裁きませんから。

 


 

心病まず、自分の身の回りの裁きをしたいなと思ったら・・・
豊川稲荷東京別院を訪ねてみてください。
大岡越前守忠相さまが、稲荷神になっておられますから。
「大岡裁き」のいろいろ、訪ねてみられたらいいと思います。


 

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